『残穢』はアクロバティックな小説だ。

あまりにも放置しっぱなしでしたが、ちょいと思うことがあって書きますよ!
要するに『『残穢』の感想でございます。


【『残穢』はアクロバティックな小説だ】


 それはこれが怪談実話を目指した小説であるということによる。
 怪談実話は実話であるのだから小説ではない。ノンフィクションだ。ノンフィクションを目指すフィクションってなんだ。
 まずはモキュメントなどと呼ばれる分野を思い出すだろうが、あれはノンフィクション風のフィクションだ。どこにも矛盾はない。この小説はフィクションを描くことでノンフィクションに到ろうとしているわけで、最初からかなり困難な道であることは誰にでもわかる。
 もちろん用意は周到だ。最初に『鬼談百景』が用意されている。こちらは小野不由美による怪談実話集だ。いや、実話とはどこにも書かれていない。だがここにある話は、どれも実話の肌触りを感じさせる。そのように語られそのように構成されているからだ。そしてなにより、これは怪談実話の読者へと向けて書かれている。そこを間違って小野不由美による怪奇小説集と思い読んだ読者が怒っていたりするのを見ると、この試みが成功していることが良くわかる(#1)。改めて言うが小野不由美によって書かれているという事を除外すれば、これは完璧に怪談実話集なのだ。そしてこれは「ということを下敷きにした小説を書きます」という一種のアリバイ作りだ。小高い丘を高い山とするために深い谷を掘るような作業なのだ。
 小説家が怪談実話を書くことは魂をガリガリと削るように辛い作業だとわたしは思う。小説家は何を書こうがどうしても小説を書いてしまう。そして怪談実話は実話であることにこそ意味がある文芸だ(#2)。そのため作家が怪談実話を書くときには、今語っていることが虚構なのか否かを常に問い続けながら書くことになる。それはとても疲弊する行為だ。怪談実話を書くということはそういうことだ。
 それが他の《現実》を描くタイプの小説、たとえば私小説などとどう違うか。言うまでもない。描かれる対象が違う。怪談実話は《霊》を描く。信じる信じないとまったく別の次元で、霊は現実の中の異物だ。それは非日常であり、怪異としか呼べない何かだ。それを日常として淡々と感じ取れる人もいるだろうが、数は少ない。そして小説に於ける霊の役割は、日常に対して異物である事だ。言葉である《霊》が顕現し現実を動かす。《霊》を描くということはそういうことだ。
 予め現実に対する異物として存在する霊に意識的な怪談文芸であるなら、霊は作者のコントロール下にある。純朴に実話怪談であるならば、予定調和的に霊は異物として現実の中にごろりと放置される。だってそれが現実なんだもの、で何の問題もない。
 虚構の装置として霊を意識しつつ、尚且つそれを実話として描くのは、この二つの間を幾度も往復することで一つの物語として成立させるということだ。それはちょうど電磁石とスイッチのオンオフを連動させることで金属片を細かく振動させてベルを慣らすような、そんな行為だ。フィクションとノンフィクションを無限に往復することで世界が軋みサイレンのように鳴り続ける作品世界。怪談実話への深い造詣と『鬼談百景』に始まる綿密な構成とでそれを成立させた小説が『残穢』だ。


注釈
#1
 実話怪談本で有名な出版社の編集者から聞いた話だが、実話本シリーズの中でホラー小説(つまりフィクション)を出してもまず売れないそうだ。実話怪談本において、それを実話とすることが重要な意味を持つからだ。文芸としての怪談と実話怪談との購買層には大きな隔たりがある。


#2
 柳田国男の名著『遠野物語』を「近代において初めて、真の実話至上主義ともいうべき明確な方向性を打ち出し」た稀有な怪談文芸作品だ、と論じているのが、東雅夫著の『遠野物語と怪談の時代』だ。語り手が実際に経験した奇妙で怖ろしい話を、出来るだけ正確に聞き取り採録する。その作業は現在の怪談実話作家の作業と何ら変わりがない。そしてこの実話至上主義が今出版されている怪談実話市場を占めていること、つまり遠野物語の遙かなる末裔だけが生き延びていることにも間違いはない。
 遠野物語は序文において、他の怪談本とは異なり本書に書かれているのは『現在の事実なり』と記している。
 柳田の言う「現在の事実」とは、話す人間が真実と思って語っていることを指す。そして否定されている「他の怪談本」とは、虚構でありながら実話として語られた話を言う。
 柳田においての「真実」とは話者の主観の中にあるのだ。
 もともと人々は怪異が事実であると信じるのに、客観的な保証など必要としない。そして柳田の必要とした「真実」は、怪異を語る佐々木喜善の誠実さの中にある。
 柳田が「現在の事実」としたもの。それが怪談実話における「実話」だ。怪談実話はそう言う意味で実話でなければならないのだ。

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